決断しない気持ちの裏側

昨日は朝7時にカフェに行って仕事して、オークション会場に行き、仕事仲間と会って1時間ぐらいお話。いろいろな話題だけど、日々の小さなこと、雑多なことを共有できるのはありがたいなと思う。そのあとは一旦事務所に戻り3時半から査定。よく行く町にある、インターネット関連の会社だった。査定を終わらせてから、お客さんに呼ばれてたので、その会社に訪問。エンジンランプがついていたので、診断機でリセットする仕事。そのあとは管理している物件の住人から、宅配ボックスの番号を捨ててしまって、開けられなくなってしまったとの連絡を受けていたので、鍵を事務所でとってから現場へ。その人との雑談。そのあと6時から説明会。中国地方の方。夜はいつもいく温泉でホッとして終了の1日。いつものことながらいろいろやることがある。

ふと思うのは、よくここで書くことだけど、決断の先送りのこと。やる決断もやらない決断も難しいのは、人は選択の可能性が消えることを嫌がるのだなと思う。自分のことを考えてもそうだ。Aをやるという決断をすれば、BやCをやる可能性が消える。それが心地よくないのだ。もちろんAをやらない決断こそそれを痛感するはず。選ばなかった方の選択肢を逃がすことを恐れるのだ。

学生時代に塾でアルバイトしたときのこと。40ぐらいの男性が講師としていたのだけど、その人は司法試験の勉強中と紹介された。ただしばらくして、その人の行動や言動を知ると、勉強をしている雰囲気をまったく感じさせなかった。周囲の人はみんなすでに諦めているということは知っていたけれど、本人はそれを公言しないのだ。それはプライドとか世間体もあるかもしれないけれど、可能性をゼロにする発言をしたくないのだとも思う。そんなところで意地をはっても何もならないのに。

FC加盟を考える人は将来を変えたいと思っている人たちばかりだ。加盟しない、という選択肢ももちろんあるし、数えきれないほどあるFCの中で選ぶことは大変なことだとも思う。その背景にはやるもやらないも自分で決断するということは、その他の選択肢の消すということなのだ。その勇気をもつことが大変なのだ。あえて言えば、最適なものを選ぶというよりも、自分で選んだ選択肢を最善なものにする、という強い気持ちのほうがよっぽど大事だったりする。選択の決断は人生を大きく変える要素でもあるなと思う。

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